2023年1月23日(月)

昨日はイレギュラーで出勤。今朝は6時半過ぎに起床。ココアをいれて読書。「アラブ、祈りとしての文学」(岡真理著)は土曜日の夜に読了。今は「夕暮れに夜明けの歌を」(奈倉有里著)と「そんへえ・おおへえ」(内山完造著)を読んでいる。去年「戦争と平和」を読んでから中村文則の対談集でドストエフスキーの話を読んだりそこから亀山先生の本を読んだり、本のチョイスがなんだかロシア文学に寄っているのはたまたまであり時世とは関係ないよと思いつつ、でもこんな時にこそロシアの美しい文化に触れたい気持ちがやっぱりあるのかもなぁとも思う。件の侵攻が始まったとき、モスクワの美しい街並みをニュースで観てボロボロ泣いたことを思い出す。ああロシアってなんて美しい国なんだと改めて思った。そしてたった一人の権力者の存在で美しい国はこんなにもひどいイメージに晒されてしまう悔しさを思ったのだった。「そんへえ・おおへえ」は中華圏についての本を読んだときに「上海で本屋をやっていた人」として内山完造の存在を知り、市の図書館にこの1冊だけ蔵書があったので借りてみた。すっごい古い岩波新書が書庫から出てきた(1984年版!)。朝食は残りもののシチュー、白菜と豚肉の煮物、納豆ごはん。午前中は勉強と読書。昼食は肉まん、コーンスープ、ひじきの煮物、冷凍焼売。肉まんに合うおかずが全く分からなかったのと、なんでもいいからあったかい汁物が飲みたかった顛末。午後は寒空のなか意を決してスーパーへ買い出し。帰宅してから勉強。

読了した「アラブ、祈りとしての文学」の最後部分にまた深く頷いた部分があったので、くどいようだけれど引用させていただくことにする。

小説それ自体は現実を変えはしない。しかし、小説を読むことは私たちのなかの何かを、確かに根源的に変える。コンスタンティーヌにせよガザにせよ、行ったこともないそれらの土地が、小説を読むことで変貌を遂げる。私のなかで大切な、かけがえのない存在になる。変貌するのは土地だけではない。土地とともに、その地に住む人々、会ったこともなければ言葉を交わしたこともないそれらの人々が、あたかも旧知の間柄のように、私たちの親しい友人になる。小説を読んだ私たちは想像することができる、彼、そして彼女が私たちの友人であり兄弟であり姉妹として傍らにあるような未来を。小説を読むことで世界と私の関係性が変わるのだ。それはもしかしたら、この世界のありようそれ自体が変わるための、ささやかな、しかし、大切な一歩かもしれない。

本当に、本当にそうだと思う。小説を読むとき、たとえそのなかの人物たちと生きている時間も場所も違っても、小説のなかにいるとき「彼ら」と自分がまるで友人のように(到底友人になれなそうなタイプの人物も多々登場するが)その存在がとても近くに感じられる。そしていつか小説と同じその場所に行ったとき、同じような状況にいる人物に出会ったとき、「わたしはあなたを知っている」と思うのだ。それはフィクションの中だけに限らず、現実の社会の中でもそうだ。自分の日常では出会わない人々、目に見えない人々。だけど、彼らは同じ世界に生きていて確かにそこにいる。そのことをきちんと知り、きちんと見つめたい。そして「わたしはあなたを知っている」と手を差し伸べられる人間でありたい。そして、たとえ彼らに直接届かなくても、彼らのために祈れる自分でありたい。

ああこの感覚ってなんだっけと思って思い出した。バンプの「メロディーフラッグ」。「必ず見つけてやる」だ、まさに。