2024年5月28日(火)

6時前に一度目が覚めて、二度寝して起きたら7時45分。朝ドラに遅刻する!と思って慌てて起きる。朝ごはんはサラダ、もやしとニラの挽肉炒め、納豆ごはん。午前中は勉強。お昼前に終えてNHKプラスでドキュメント20min「ひさしとひさし。」を観る。とてもよかった。最近のNHKはあまり自分にヒットしてくる番組がないなぁと思っていたけれど、これはよかったな。私は、好きなことをただひたすら「好き」という気持ちでやり続けていたら変人(褒め言葉)になっていたっていうタイプの人がすごく好きなのだけれど、ここに登場している井上恒さんもまさしくそのタイプの方だなぁと思った。同時に、アカデミックな「王道」の道を歩んできたわけでもなく、その「研究」を通じて何かの成果や利益や地位を得たいわけでもない、「意味なんて無くていい。自分がこれをやりたいからただやっているんだ」という姿勢に、勇気づけられた気がする。何かをやり続ける理由として、お金になるとか人のためになるとか、そういうのがあるととても聞こえがいいけれど、でも、そうで無くてもいいんだと改めて思えた。

最近読んだ本は「歌われなかった海賊へ」(逢坂冬馬著)と「生きることと考えること」(森有正著)。逢坂さんは例によって最近話題の人すぎて手に取らずにいたのだけれど、高橋源一郎宇多丸さんのラジオにゲスト出演されているのを聞いて「面白い人だなぁ」と思って読んでみた。確かラジオでご本人が「「同志少女よ〜」が話題になって、その後にウクライナ侵攻が起きて世界の状況が変わったりして、「同志少女よ〜」だけでは伝えきれなかった部分を書きたいと思って「歌われなかった海賊へ」を書いた」といった主旨のことをお話ししていたと思うのだけれど、そうした思いが込められていたからか、かなりメッセージ性の強い作品だと思った。個人的に「小説」というものに期待するものとして、あまり「メッセージ」というのを重要視していないのでその点では少し自分の好みとは違ったかなとは思うけれど、作品の中の言葉には、ところどころ「本当にそうだよな」と思わされる部分もあった。

「でも、なぜ、それをお前たちが止めるんだ。自分の命を懸けてまで」
レオンハルトが答えに詰まった。ヴェルナーが代わりに答える。
「見てしまったからだ」
 そうだ、と自分で納得した。目の前にいるヒトラー・ユーゲント。年齢は同じ程度で、同じ市に生きてきた。ただ、彼らが目を背け続けたものを、自分たちは見てしまった。

人間は、自分が無知という名の安全圏に留まるために、どれほどの労力を費やすことができるのだろうか。

久しぶりに会った友人とご飯を食べている時に「世界や社会に対して知らないことが多すぎて、これじゃダメだと思って、いま大学で勉強してる」と話したら、「なんでダメだと思ったの?」と聞かれた。「知れば知るほど自分が知らない問題が世の中にたくさんあって、それで苦しんでいる人がたくさんいて、その人たちが苦しむ状況がなかなか変わらないのは、その問題に目を向けないどころか、そういう問題があることも知らずに生きている自分も含めたマジョリティー側の人間のせいなんじゃないかって思った」「知ってしまうと、もう知らないふりしては生きていけなくなる。なんか、そういうモードに入ってしまったとしか言いようがないんだけど」と話した。この小説に書かれていることも、それに近いのではないかと思った。見てしまった、知ってしまった人々はそこから目を背けられなくなるし、無関係ではいられなくなる。だから最初から見ないし、知ろうともしない。そういう人々が社会のマジョリティーである限り、マイノリティーの人々も本当に生きやすいと思える社会は来ないのではないかと思う。自分自身が目を伏せ続けるマジョリティーになっていないかを問い続けないといけないし、社会の中にも、それを問い続けられる余裕があって欲しいと願う。