呼吸整えて 記憶をたどった君の笑顔まで
数日前、以前勤めていた会社の同僚が2月に亡くなったと人伝に連絡があった。亡くなった本人が家族に「死んでも誰にも知らせなくていい」と言っていたそうなのだけど、おそらく何かのきっかけで誰かに伝わるところとなったようで、ご家族の同意のもと、生前に親交のあった人たちには知らせてもらってよいとのことで私のところへも連絡があった。
彼女はわたしより数歳年上で、いまは40歳前後だと思う。彼女も含めた数人でよく仕事帰りや、時には休日にも飲みに行っていて、二人だけで飲みに行ったことも二度ほどあった。お互い勤めていた会社は既に退職していて、退職後も何度か連絡を取ったりしていたけれど、ここ数年は音信不通になっていた。亡くなった理由までは伝わっていないらしく、だけど本人が「誰にも知らせなくていい」と言っていたということは、おそらく突然の事故などではなかったのだろうと思う。
彼女が「死んでも誰にも知らせなくていい」と言っていたことについて、彼女はどんな思いでそう言ったのだろうかと思った。死者への推測は本人が弁解できない状況のなかですべきことではないかもしれない。ただ、わたしはその言葉を聞いたとき、そこに彼女の「孤独」が潜んでいるように思えてならなかった。彼女の命が尽きるその時、彼女はどんな気持ちだったのだろうかと考えると、とてつもなくつらかった。「どうか彼女が、一緒にビールを飲んで笑っていたあのときと同じ笑顔で、天国で笑っていますように」と思うと同時に、そんなことを今更思うくらいなら、彼女が死ぬ前に、彼女が笑顔でいることをもっと願えばよかったと思った。
2年前、叔母を続けて二人亡くした。二人ともまだ50代だった。若すぎる死だった。年齢を重ねていればいいということでもないけれど、それでも今回の彼女の死を知った時、二人の叔母のことも思い出した。「どうして世界は、こんなにも若すぎる命ばかり奪っていくのだろう」と思った。神様がいるとしたら、神様を憎みたかった。そして「なぜ私ではなく、彼女たちだったのか」と思った。若い命という点ならわたしでも同じだっただろうに、なぜ私は生きていて、彼女たちは死んでしまったのだろうか、と。どうして彼女たちだったのか、と。
考えても考えても、その理由は分からないけれど、いまここにある事実は、彼女たちはもういなくなってしまって、私は生き残っているということ。それだけでしかない。きっと理由なんて、ない。
生きねば。生きねば。自然と強くそう思っていた。「彼女たちの分まで」とかそういうことではなく、こんなにも若すぎる命を容易く奪っていく世界に、わたしまで屈してたまるかと思った。しがみついてみっともなくても、その時がくるまでは絶対に生き抜いてやると思った。生きねば、生きねば。知らせを聞いた日の夜は、そう言い聞かせながら泣きながら眠った。
今になってこんなことを思う自分を悔やむけれど、でももう彼女たちはこの世にいないから、やっぱりわたしはせめて願う。
どうか彼女たちが、天国で笑っていますように。この世の苦しみから解放されて、楽しく過ごしていますように。そしていつか、今度は天国で、また笑って会えるように。その時まで彼女たちの笑顔は、わたしの記憶の中に大切にとっておくことにする。