2024年1月26日(金)

二度寝三度寝を経て9時前に起床。冬は面白いくらい起きられなくなる。朝ごはんは味噌汁、もやし豚肉炒め、納豆ごはん。洗濯をして図書館に行って、その足でスーパーへ買い出し。お昼はスーパーで買ったお惣菜の卯の花と揚げ出し豆腐。少し昼寝して読書。

終わりそうで終わりの見えない大学生活。昨日で本当にこれで最後と思われる悪足掻きを終え、卒業できるかどうかは結局まだ持ち越し。高校・専門学校のときも最後の最後まで卒業単位が足りるか危ういまま、なんとかかんとか卒業してきた自分の学生生活を振り返り、計画の甘さは昔からなんだなと痛感する。旅行とか行く前は心配性ゆえにわりと念入りに調べ物をするタイプのくせして、こういうところは詰めが甘いのはなんなんだろう。

そんなわけで意外とバタバタした日々が完全には落ちつかないままだったのだけど今日からじっくり読書を再開。先週あたりからチビチビ読んでいた「韓国文学の中心にあるもの」(斎藤真理子著)を再び読み始める。韓国文学が描き出す社会や人々の背景にある歴史的な出来事や、そうした出来事の韓国での受け止められ方などを取り上げつつ、代表的な韓国文学を紹介する読書案内という立ち位置の本。韓国文学は近年あまりにも人気がありすぎるのと、「フェミニズム」などといった一言看板によって一過的なムーブメント扱いされているような感じがしていてあまり素直に手に取ってこれなかったのだけれど(ひねくれ者ゆえ)、歴史や社会問題を取り上げた作品は素直に読んでみたいなと思う本が多々あった。こういう入り口から韓国文学に入ってみるのは自分としては合っていそうだなと思うので近々読んでみたいと思う。今日図書館から借りてきた「大読書日記」(鹿島茂著)もまえがきだけ読んでみたけれど面白そうな予感がびしびししている。読書家・愛書家として鹿島さんのお名前は知っていたけれど著書を読むのは初めて。冒頭の「まえがきにかえて」では読書の必要性について

読書は現実生活でなんの役にも立たないと考える人たちの主張を率直に認めることができる。なぜなら、読書などしなくてもたくましく生きていける人々をたくさん知っているからだ。(中略)だから読書しない人々に向かって読書の効能を説いても無駄なことは自明なのだ。

と書きつつ

だが、その一方で、青春時代に読書をする習慣を身につけたことが自分の人生にとって計り知れない効能をもたらしたとはっきりと認めることができる。読書なしの人生と読書ありの人生のどちらを選ぶかと問われたら、躊躇することなく後者を選ぶと答えるだろう。

と述べる。これには激しく同感する。よく「子供を読書好きにするにはどうすればいいのか」と言った子育て記事などを目にすることがあるけれど、そうしたものを目にするたびに「人はそんなに子どもを読書好きにしたいんだなぁ」「読書しなくてもきちんと生きていくことはできるのに」と思う。とか言いつつ自分に子どもがいたらやっぱり読書をさせたいと思うのはまさに上記のような理由になると思う。自分の人生に「読書」があったことが本当によかったと思うからだ。

そして著者は読書の効能は「事後的」(事前に効能を明示できない)と言いながら

読書の効能が事後的である以上、それを事前的に説明することはやめて、「理由は聞かずにとにかく読書しろ」と強制的・制度的に読書に導くこと、これしかないのである。

と締める。自分が小学生の時に「朝読書」という15分程度の読書の時間が強制的に設けられていた記憶があって「あれはなんの意味があったのだろう」と思ったりしていたけれど、つまりは「つべこべ言わずに本を読め」ということだったのかもしれない。そして年齢を重ねてもそれを続けるか否かは、本人が決めることなんだろう。だとしたら「本を読む人生」を選んできた自分に、ちょっとは「グッジョブ」と言ってやりたい。