2023年1月14日(土)

7時半頃起床。ココアをいれて読書。「アラブ、祈りとしての文学」(岡真理著)を読み始めていて序盤のまだ40Pほどしか読めていないのだけれど、自分の態度を問いただされているような、厳しくも核心をついた文章に圧倒されている。ただそれは決して読者を責める姿勢なのではない。これは何よりも、著者が著者自身に問いただしているのではないかと思う。己に厳しく自問し続けているかのような文章。果たしてお前はどうなんだ、と。

思想と呼ばれるものを私たちが必要とするのは、このような瞬間、このような場においてではないか。三千人が殺されるより五万人が殺されることのほうがはるかに重大で本質的であると、数の大きさに比例して出来事の重さを表象し、そのように感じてしまうこと。そうした思考、感覚に抗って、私たち自身を「そこ」に、出来事の根源に深く繋留するための思想が。
(中略)
大量死という出来事において死者の数だけが強調されるなら、一人の人間が死ぬという出来事がもつ意味の重み、言い換えるなら、人間一個の命の重みそれ自体が限りなく希薄になるだろう。このとき、殺される者たち一人ひとりの命の重みを顧みない点において、私たちは殺人者の似姿を我知らず分有することになりはしないだろうか。

ここに著者が言う「思想」を求めているから自分は本を読み続け、勉強を続けるのかもしれないとふと思う。普段の自分の生活圏外で起こっている出来事への想像力が欠如し、自分がこの世界にあふれている悲しみに鈍感になっていくこと、なれてしまうことに、やけに恐怖を覚える。ひとつでも多くのことに目を向け、ひとつでも多くのことを知り、そしてそれについて自分なりに向き合う「思想」を自分のなかに持ち続けなければ、簡単に悲しみを見過ごして生きていけてしまう。自分一人がそれを知ったところで世界は変わらないとわかっているけれど、それでも知らなければならない、考え続けなければいけない、そういう気持ちでいつも本を読み続けている気がする。

常に己を問い続ける態度のなかで、ホロコーストに関しても臆することなく触れていく著者の「私が書き、伝えなければ」という強い思いに、読み手である自分もしかとこれを受け止めなければと背筋が伸びる。こういう気持ちになれる本は、なかなか無い。

朝食は昨晩の残りのキムチ鍋と納豆ごはん。午前中は勉強。10年以上愛用してきたシャーペン(クルトガ)が壊れた…。社労士試験の勉強をしていたときに購入し、汗も涙も喜びも染み込んでいるシャーペンなので思った以上にショックである。感謝の念を込めて別れを告げ、明日、新たな相棒を迎えに行こうと思う。昼食はきんぴらごぼう、塩鮭、納豆ごはん。申請しておいたワクチン接種証明書が昨日無事に届いたのでファストトラックの申請をする。その後、勉強。毎年恒例の書き初め、今年は「卒業」にしたので、がんばる。