2023年1月10日(火)

昨日はめずらしく0時過ぎまで起きて本を読んでいた。「バニヤンの木陰で」を読了。前半はなんだかあまり話に入り込めずに読んでいたのだけれど、中盤からの風景描写、そしてそれに呼応する感情描写がすごく詩的で引き込まれた。とにかく悲しい、悲しいも通り越してつらい、それも通り越してもう終わらせてしまいたいという誘惑が闇の向こうから手招きしてくるようなそんなシーンばかりで、でもこれは文章のもつ力であり皮肉でもあるのかもしれないけれど、そんなシーンが言葉を使って紡がれたとき、その画が美しすぎるのである。ただこれを「美しい」の一言で語ってしまって、それで終わりでいいのだろうかとも考える。この小説自体は著者の経験を基にしてはいるもののフィクションであり、だけど小説の舞台であるカンボジアという国に、小説の題材にされた悲しい歴史があるのは事実であり、それらを「語られる側」である自分が「美しい」としか捉えないことはただの都合のよい美化でしかないのではないかと感じる。特権があるか無いかというのは条件によって変わるものであると思うけれど、いわゆる「国力」というもので比較をしたとき、日本という先進国に住んでいるわたしはおそらく彼らの国からみたら「特権のある」側の人間なのだ。それで言うなら自分がベトナムに旅行することも、「特権」を利用した娯楽なのでは無いかと思うし、実際そうなのだと思う。「お前は特権側の人間だ」と指をさされたら、言えることは何も無いのだろうと思う。でもそのうえで、自分にまた都合よく気持ちを立て直そうとするならば。先日見た「100分deフェミニズム」の上間陽子さんの言葉を思い出す。自分と相手の立場が違っても「そこから」と思って始めるしか無い、と。私と彼らの生まれ育った環境が違っても、「そこから」と思って私は彼らと同じ場所に立って、私の目でその世界を見てみたい。拭い去れない背景があるとしても、私個人として、そこに立ってみることから始めたい。今たどり着けるのは、そこまででしかない。

明日は今年のバイトはじめ。がんばろー。

【追記】「そこから」はじめなければならないのは、大なり小なり、すべての人間がそうなのかもしれないと思う。自分では無い「他者」である以上、すべて「そこから」なんだろう。そう考えると「国籍」などと言うものは数多くあるなかのひとつの要素でしか無いのかもしれないとも思うし、そのひとつの要素がとてつもなく大きなものに思えてもくる。こういうことを、ずっとぐるぐる考えて生き続けている。