2022年10月22日(土)

朝6時過ぎに起床。昨日は22時過ぎには寝たせいか早く目が覚める。読書。朝食は母の手製パン、枝豆スープ、柿。午前中に洗濯。晴れ予報だったので張り切って洗濯したのに結局ほぼ終日曇り空だった。その後読書。「戦争と平和」第三巻読了。昼食は浅漬け、鯖の塩焼き、梅干し、枝豆ごはん。祖母からもらった炊飯器は三合炊きだが三合炊くと釜ギリギリになる。タイマーも1時間ごとにしか設定できない仕様なので、これまで使ってきた炊飯器が完全に使えなくなるまではそっちを使うことにする。午後は昼寝。起きてから勉強。夕食は母が育てて昨日持ってきてくれた茄子を味噌汁にする予定。

戦争と平和」第三巻。ナポレオンがセント・ヘレナ島で書いたという文章の引用が出てくる。

早晩、ヨーロッパは実際に同一の民族の構成するところとなり、万人が、どこへ旅行しようと、常に共通の祖国にいることになったであろう。

 すべての河川が万人のための水路となり、海が共有となり、大規模な常備軍が諸皇帝の親衛隊だけに縮小される等々の案は、余の言明していたところである。

 偉大な、強力な、壮麗な、平穏な、栄光の祖国フランスへ帰還するや、余はフランスの国境の不変を宣言し、今後のいっさいの戦争は防衛戦争であり、いっさいの新たな領土拡張はーーー反民族的であると宣言するはずであった。余は王子を帝国の統治に参加せしめるつもりであったし、余の独裁政治は終り、彼の立憲政治がはじまるはずであった……

トルストイはこれを「諸民族の死刑執行人という、自由のない、悲しい役割を神によって定められた彼は、自分の行為の目的は諸民族の幸福であり、自分は数百万人の人々の運命を指導し、権力という手段によって善徳をおこなうことができるのだと、自分に言い聞かせていたのである!」と言っているのだけれど、果たして本当のナポレオンの思うところはどうだったのだろうかと考える。ナポレオンを擁護するわけでは決してないのだけど、これはあくまでトルストイ(=ロシア側)からの見方であり、視点を変えればまた違うナポレオン像が見えてくるのだろうかと考える。ので、異なる様々な視点から捉えた「ナポレオン像」を描いたものも読んでみたいと思った。

そして第三巻で好きだったのはこのシーン。

あたたかい、明るい夜だった。家から左の方角にあたって、モスクワで最初に火の手があがったペトロフカの家事が、夜空を明るく染めていた。右のほうの空には細い三日月が高くかかり、それと向い合う位置に、ピエールの心の中で彼の愛と結びついていたあの彗星が明るい光を放っていた。門ぎわにゲラシムと、料理女と、二人のフランス兵が突っ立っていた。たがいにわからぬ言葉で話し合う声と笑い声が聞えた。彼らは都心の方角に見える火事明りをながめていた。
 大きな都会の小さな火事には、すこしの恐ろしい凄味もなかった。
 高い星空と、三日月と、彗星と、火事明りをながめながら、ピエールは喜ばしい感動をおぼえていた。『ああ、じつにいい気持だ、これ以上何が要ろう?』と彼は思った。

己の財産や権力を守るために右往左往している状況を遠目に眺めながら、今ここには貧しく、互いの言葉の分からない者たち同士がそれでも語らい笑い合う瞬間がある。そんな場所から眺めると、金目のものを奪い合うような火事になど、どんな恐ろしさも感じなかった。今ここにある異なる立場の人間たちの「友情」とすらも呼べないほどのささやかな交わりだけで、十分にしあわせだと思えたということ。

もう会戦の終り近くには、人々は自分のやっていることのすべての恐ろしさを感じて、やめたらどんなにほっとするだろうという気持になっていたが、それでもなおある不可解な、不可思議な力が彼らを動かしつづけていた、そして、三人に一人の割でしか残っていない砲兵たちは、汗と火薬と血にまみれ、疲労で足がふらつき、息をきらしながらも、弾薬を運び、装填し、照準を定め、火縄をあてていた。そして砲弾は依然として非情に、ものすごい速さで飛びかい、人間の身体を砕き、そして人々の意志でではなく、人々と世界を動かすものの意志によっておこなわれる、この恐ろしい事態がおこなわれつづけていた。

人一人が生きているという尊さをかけてまで、守らなくてはいけないものとはいったい何なのか。人一人が生きているという、それを踏みにじってまで殺し合う背景にはいったい何があるのか。

戦争というものが起こるとき、そこに絶対的に正しいものなどというのは存在しないように思えるし、憎むべきは「人」ではないのだと思う。怒るべき対象があるとするならば、人一人の命の尊さなどに気付きもせずに、ただ己の権力や利益を失うことだけを恐れている権力者たちの弱さなのであろうと思う。本当に、今の世界を見ていてもそう思う。誰もが、大きすぎる己の権力を失うことをただひたすらに恐れて、その力をそもそも与えられてもいない人々の命をいとも簡単に犠牲にしている。いつの時代も戦争というものは、そういう人々が勝手に始めて、ただ倹しくでも生きたい人々の人生を奪っていくのだと思う。