2023年1月20日(金)

朝7時頃に目が覚めてウトウト。7時半すぎに起床。読書。朝食は味噌汁、春菊と人参の胡麻和え、塩鮭、納豆ごはん。午前中は勉強と読書。引き続き「アラブ、祈りとしての文学」を読んでいる。この本のタイトルにもなっている「祈り」と言うものに以前から何か「惹かれる」というか「気になる」と言う感情を抱いていたのだけれど、以下を読んで「ああ、こういうことだろうか」と思う。

幼くして民族浄化で故郷を追われ難民となり、あるいは異邦の難民キャンプで難民として生を受けた彼女たちは、幾度となく虐殺にさらされて、肉親を殺されたり、息子を連れ去られたままだったり、癒し難い痛みを抱えて生きている。世界は自分たちが被った不正義に関心などなく、六十年がたっても難民キャンプで、国連が配給する小麦粉で糊口をしのぐ生活を余儀なくされている。(中略)彼女たちがそれでもなお、今日を生きることを支えているのは、ムスリムとしてイスラームの教えを守って正しく生きるという信仰の力ゆえだった。宗教の名のもとにふるわれる理不尽な暴力によるもっとも悲惨な抑圧を被るのも、こうした社会の低みで生きる女性たちであるが、同時に、「人権の彼岸」に生きるこれらの者たちがイスラームの信仰を力にして、あらゆる不条理に耐えていることもまた、まぎれもない事実なのである。

もはや自分の力では何も変え得る希望がないという極限の状態のなかで、彼女(彼)たちの最後の望み、「祈り」となるのがここでは宗教なのだろう。日本語には「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるけれど、己でできることはすべてやり尽くした後、それでもまだ何かできることはないのだろうかと思ったとき、最後に目に見えぬ存在に祈りを捧げるというのは宗教色の比較的薄いと言われるこの国でも習慣としてあり、祈る対象がそれぞれに違っても、それは人類にすべて共通している行動ではないだろうか。そしてそこには人間としての切実さが共通して現れる。

そして私たちが、彼女たちを抑圧している根源であると思っている宗教というものは、事実、彼女たちを苦しめる理由でもあるだろうが、同時に彼女たちの「支え」でもあるのだろう。先日読んだ「テヘランでロリータを読む」に登場する女性たちも、ヒジャブの着用を強制されそのことに息苦しさを感じながらも、それはストレートに宗教そのものへの嫌悪に繋がるわけではなかった。もちろん信仰心の強さに個人差はあれど、「イスラム教」という宗教は彼女たちにとって、誇りであるように思えた。同じ信仰の下で生きてきた両親、祖父母の生き方に誇りを持ち、そしてそれを受け継いだ自分たちにも誇りを持っている。そうした実情を何も知らずに、私たちが特定の宗教がイコール悪であると単純化することは間違っている。

歴史的にはイスラーム世界を植民地支配した西洋の帝国主義列強が、イスラーム社会における女性差別イスラーム文化全般の後進性の証とすることで植民地支配を正当化した。(中略)「イスラームと女性」とは一文化におけるジェンダーという問題を超えて、現代世界において特殊な政治的負荷を帯びた問題である。にもかかわらず、そのムスリム女性自身がイスラームをいかなるものとして生きているのかという彼女たちの生の内実は、私たち、すなわち、歴史的にも今日的にも、彼女たちの生殺与奪の権利を握り続けている西側世界の人間たちにほとんど知られていない。

こうした宗教の問題だけに関わらず、何かをカテゴリ分けして「これは悪だ」「これは善だ」と線引きしてしまうことはすごく起こりやすい。それはなぜだろうと考えてみると、おそらくそうすることで複雑な物事は非常に分かりやすくなり、「難しい」の行き止まりから脱することができるからではないかと思う。そして分かりやすくした構図のなかで何かを「悪」だと決め付け、そして自分が「善」の側にいるのだと確認することで、「悪」を攻撃すると言う己の行動もまた「善」とすることができる。その安堵感を得たいがための単純化は、その本来の背景を見えなくしてはいないだろうか。そして、ある一つの視点から「善」であると信じる己の行動が、誰かを傷つけていると言う可能性を忘れさせようとはしていないだろうか。

誰か(それはだいたいにして”権力”のあるところ・人物である)が決めた構図のなかで思考するのではなく、自分がどの場所に立ちどの視点で物事を見るのか、そしてどう考えるのか、それを自分で選ぶためにはどうすればいいのか。私より賢くて頭のいい人なんて星の数ほどいると知っている。だけどそれらの人たちの考えが、自分の考えとイコールであるかと言うとそうではない。考えることを放棄した人間たちが、限られた地位のある人たちだけに思考を委ねた世界は独裁の世界になる。私はその片棒を担ぎたくはない。

「あなたの行動がほとんど無意味であったとしても、それでもあなたはしなくてはならない。それは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」(ガンジー

だから今日も、明日も、「無意味」なことを続けていくのだと思う。